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蓮華定院を「知る」

真田幸村 仮寓の寺「蓮華定院」

蓮華定院は鎌倉時代の初め(建久年間)、行勝上人により開創されました。本尊は阿弥陀如来様です。

高野山は大永元年(1521)の大火により、4000ヶ寺が焼失するという災禍に見舞われました。翌年、当院は使者を信州佐久郡、小県郡の豪族に送り、宿坊の契約を結ぶことで再建を図りました。真田家の源流にあたる海野氏ともこの時ご縁が結ばれました。

武田信玄の元で頭角を現した真田昌幸公は、第一次上田合戦において 徳川軍を退けましたが、関ヶ原の戦いでは西軍に与し、次男・幸村(信繁)公と共に上田城に籠城して、徳川秀忠軍を釘付けにしました。しかし西軍の敗北により、高野山への蟄居が命ぜられました。

当院は山麓の九度山に住居を用意し、昌幸公・幸村公親子はそこで妻子と暮らしました。昌幸公は慶長16年(1611年)九度山で客死しました。幸村公は14年間九度山と当院を往復して暮らし、得度して「好白」の僧名が与えられました。大坂冬の陣の勃発にあたり、幸村公は豊臣秀頼公からの使者に応え、九度山を脱出し、大阪城に入りました。大阪城の南方に築いた出城は「真田丸」と呼ばれました。大坂の陣の勇敢な戦いぶりに諸大名から「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されましたが、夏の陣で戦死いたしました。

当院は、家督を継ぎ長野・松代に移封された兄の信幸公と宿坊の契約を更新し、以後真田家の高野山における菩提寺として「真田坊」と呼ばれ、真田家の家紋六文銭と雁金を寺紋とすることが許されてきました。

寺宝には、昌幸公が秀吉から拝領した「太閤像」、昌幸公所持の「南蛮兜」、幸村公自筆の「焼酎所望状」、信幸公他の「宿坊契約書」、豊臣秀次より拝領の「銘 国弘」の剣(重文)等があります。

現在の本堂・庫裏・山門は、万延元年(1860)に真田家の援助により再建が完成したものです。明治21年の大火を免れた江戸期の大名寺院の格式を今に残しています。歴史と伝統が今に息づく寺院をご堪能下さい。

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